寄付の優先順序

05182008 寄付の優先順序
 この文章を起こそうと思ったのは中国での地震である。今日の「興味」ごとをタイトルとする私のブログで扱うには失礼にあたるかも知れないが、被災された方々には何なりと気持ちを表したいと思った。願わくば日本政府から分け隔ての無い援助の手があらんことを。

 これ以上何かをコメントしてしまえば、やはり失礼になるかも知れない。全ての世界を敵に回してしまうかも知れない。それでも言っておきたいことはまだ終わっていない。
 私も少しは寄付をする。小銭を入れる箱はコンビニのレジにあったり、大手スーパーの荷造り台の脇にあったりする。
 その時に選択しなくてはならないことは、何に対して寄付するのか、である。箱は一つではない。私が基準としているのは「命」であり、「食料」である。義援金に払う金は無い。
 今回、中国での地震の被災者には悪いが、日ごろ食えている人への寄付は優先順位が下がる。そして独立した集金システムを持つ団体には寄付しない。ブルジョアな募金システムはもう税金だけで勘弁してもらいたい。突然振込用紙を送りつけるような大きな団体なら、全員でアルバイトでもしてその給金を納めなさい。
 冷たい言い方だが、天災で家族を失った悲しみはいつか癒える。たとえ職場がなくなっても、それなりの社会システムがある所では、比較的早く仕事を見つけて自活できるようになる。では、もし仮に今地震が起きて、丘の上に建つ我が家が倒壊したとしたらどう思うか。正直、なってみないとわからないが、こんな私でも助けてくれる人の心当たりは少なく無い。しかし、恒久的な食料不足や避けられるはずの落命は、「今」が要求される。

 私が寄付のことを考えるようになったのは小学生の頃。私は本当に歯が弱くて検診の度に歯医者に通うことになっていた。ある歯医者の壁に「みんなで生きるために」と書かれた古いポスターが貼ってあったのを思い出す。「ザンガイ ジウネ コラギ」?だったかなあ、カタカナでふりがなが振ってあり、白黒の、インド人っぽい老人の写真が載っていた。その写真が、初めて開いた世界への窓だった。
 最近のイメージはアフリカの子供たち。日本の能天気なバラエティ番組の裏で、報道されるべき現実がどれだけ抹殺されているか。残念ながら日本のテレビ番組は、世界を紹介していない。世界遺産なんかは息抜きで良い。他に僕らが知るべきことはたくさんある。
 私は街頭の募金箱には入れない。そこには情操教育プログラムによる小中学生にさせる募金の呼びかけ、時には隠して新興宗教への上納金のために用いられるものもある。赤や緑の羽の押し売り。自治体により町内会でほぼ強制的に一律いくらで徴収されるものもある。政治家や某国営放送局のアナウンサーが時折胸に着ける羽が、どれだけ気障に見えるか理解してもらえるだろうか。

 私の家の宗教はとりあえず浄土真宗であるが、自分ではそんなに宗教に傾倒しているつもりは無い。願わくば援助の手が宗教や、政治対立や、過去の歴史に捕らわれず、公平に与えられんことを。
 我は「祈り」の力と、その限界を知る者なり。