私の家の盆行

 今年もお盆の季節が来て、いつものような行事を繰り返している。

 私は非常に不信心なので行われているものの意味とか由来など何も知らないが、自分の家が浄土真宗と言う仏教では極めてポピュラーなグループ?一派?のメンバーであるのは知っている。
 私の家には墓が無いので、他家の方々がどのような「盆行」を行っているのか、いや、「行われている」のか知らないが、まあ、「うちの場合」を記すことで、誰かが何かの意味を見出すかも知れないので紹介してみよう。

 私が物心ついた時から、私の家は祖母の(いや、最初に亡くなったのは祖父だが、私は祖父の没後の生まれなのでその経緯は知らないが)代からある決まったお寺の檀家である。無論そのお寺には○○寺と言う決まった名前があるのだが、まあ何かの差し障りがあるかも知れないのでここは単に「お寺」と呼ぶ。
 で、私が物心をついた時、「盆行」とはお寺が主体に、お坊さんが家々を巡ってお経をあげてもらっていた記憶がある。訪れてくるのは和尚さんの時がしばらく続き、二代目に変わってからは入れ替わりお寺の家系のお坊さんがお見えになった。たいしてお布施をあげていたわけでは無いが、そうしてお寺は大きくなり今では盆行には檀家がお位牌を持ってお寺を訪れ、講堂にしつらえられた豪奢なご仏壇?の前に並べて複数のお坊さんが同時にお経をあげられるようになった。つまり盆行の主体は檀家が動くものに変わったわけだ。今ではお寺からのアクションは初盆くらいに限られる。

 お寺に入るときにお布施をまず渡し(窓口のようなカウンターがある)、講堂の入り口でお位牌を渡すとそれを並べてくれる。お経が始まり、読経の間にすべての檀家が焼香を済ませ、読経が終わると、和尚が前に出て短い講和をする。すべての檀家が集まるととても講堂に収まらない(講堂と言っても地域の公民館くらいの大きさだ)ので、お寺の方から日付を指定する葉書が来て、一日に二回、数日に分けて行われているらしい。
 その後散会し、お位牌を返してもらって納骨堂の我が家の仏壇(無論これは納骨堂が建ち変わった時に購入してきたものだ)の造花を変えて飲み物を添えて手を合わせる。納骨堂は幅が50センチくらい、下半分が薄ーい大理石、上半分は両開きの仏壇になっており、文字通り骨を入れた骨壺が収まるようになっている。それをびっしりと図書館の書棚のように並べたのが納骨堂で、お寺の建物(まあ、ビル)の上半分のフロアを占めている。各階には中規模の仏壇があって、消防法の観点から火をつけるのはその仏壇の前だけと言う決まりになっている。
 私の親に聞くと盆行の他にもあれこれあって(?お彼岸とか、○○回忌とか)、二か月に一回くらいは行っているようで、お布施の額は一回三千円くらい渡しているそうだ。まあ、納骨堂の分譲(?)とか、建物の建て替えの際にはそれなりに拠出しているようだが詳しくは知らない。ただ、まあそれが「檀家制度」と言うものだと思っている。このお寺の檀家は800世帯くらいだそうだが、これ以外にも京都ツアーなどを催して何とか本願寺に行くような催し事でも実入りにしているようだ。おそらくこの手の経営指導はお寺の本部から行われるているのだろう。

 読経の時に、それなりに数珠を手に巻いて、手を合わせて拝んでいるが、心の中では「なぜ俺は今こんなことをしているのだろう」と言ういつもの問いと、まあそれなりに記憶の彼方に居た祖母と話してみたりしている。そうやって、宗教とは後に残された人のためにあるんだなあ、と言ういつもの結論を確認している。
 和尚の講話は、お釈迦様の話とか盆の由来とか、短いけど知らない話が多いのでそれなりに聞いている。

 お寺から帰ってくると、お位牌は家の仏壇に再び収められる。お寺関係はそれで終わるが、私の住む地域には精霊流しと言う風習はある。長崎のアレほど派手なものではないが、中身は同じだ。「こも」と呼ばれる薄いござのような植物の織物の中に果物などのお供え物を包み(その形が船の形に見えないこともない)、どういう基準か知らないが、各地に設けられる指定の場所に納める。初盆の家からは精霊船が納められることもある。まあ、会社のシャチョーの一族などは見栄を張りたいか目立ちたがって爆竹を撒きながら船を出す。中には「○○公民館」の名で出ている船もある。「船」と言っても実際に水に浮くものではなく、ベニヤ板で船体を作って提灯を周囲に巻いたもので、サイズは50cmから数メートル。自作の時もあれば、専業の会社に頼んで作ってもらうこともある。船を持参する人には会場に受付があり、配置場所を指示される。
 「三界万霊」って書かれた大きな木の板(位牌)がその場所の中心で、横に仮設のろうそく台と焼香台がある。精霊流しの場所には常に消防隊が待機している。焼香台の脇にお供え物を適当に置き、適当に持参したろうそくと線香に火をつけて位牌に手を合わせるのだが、やはり消防法の観点から、火をつけたろうそくや線香は係の人が片っ端から水の入ったバケツへ除去する。
 「三界万霊」ってよく知らないが、無縁仏を供養するからなのかな。各家の位牌はそのまま家で供養する。
 こちらの会場で流れる怪しげな読経は録音である。仏教なのは確かだが、何のお経かは知らない。宗派の敷居は低く、地域の行事的なものである。

 政教分離のこの国においてでさえ、お盆と言う仏教的行事を行う期間は何だかんだと休みをくっつけて連休になる。仏教徒でなくとも休みは平等だから帰省して、親族が集まる口実になる。似たようなことは年末年始にも言える。私は仏教徒だが?年末にはクリスマスのケーキを食べて年始に神社に行く(こともある)が、お寺には行かない。いつも言われるけど、平均的な日本人だと思う。

 多分、日本人の中にも宗教を中心に生活が回っている人も居るだろう。私に比べれば日本のキリスト教徒だって生活はもっと宗教寄りに違いない。俗な話だが、檀家制度が無い宗教の方々の経済支援の実態はいかなるものだろうか。非課税なのだから基本的には取れるところから取って構わないだろう。宗教色が薄い国なので、全財産没収などと噂される新興宗教は「危険だ」と言われるが、他人に迷惑をかけない(=価値観を押し付けない)限り、その人が救われているのならそれで良い気もする。でも大抵カルトとか新興宗教に染まる人がいると、そのまわりが(特に経済面で)迷惑する話はよく聞く。「金にがめつい」のは宗教としていかがなものかと思うけど。それから例えば仏教から宗旨替えした場合、それまで持っていた「お骨」やお墓ってどうなるのだろうか。

 あくまでも一般的な範囲内で各宗教の骨子を知りたいと思うこともある。無理解は諍いの元だ。三大宗教のキリスト教は聖書があるとして、イスラームのコーランがなかなか読める機会がない。コーランはアラビア語のみがコーランであり、日本語訳されたものは「コーラン日本語版」で正しいコーランではないと聞く。また、そのようなコーランでも、知人から渡されるのが正しい入手経路であり、従って書籍としてのコーランは出回っていないとか。岩波文庫にコーランと言うタイトルの絶版本はあるが、それ以外には解説書みたいなものしか出回ってない模様。これでは怪しい新興宗教にありがちな「一緒に勉強しましょう」的な布教活動にあいそうで、ちょっと手を出しづらい。

 これは持論と言うか個人的な希望だが、どんな宗教であれ、それは、恒久的に無差別な心の平安を「保証」すべきものではないだろうか。それ以外は個人的な思想であり、「宗教」と呼べるまでに成熟していないものだと思っている。
 この時期は各家の平安を願うばかりである。