リオオリンピックの雑感

 面白い番組も無い時に、いつでも好きな、あるいは珍しい競技が見られるのは便利なんでずっとやってて欲しいんだが…リオオリンピックの放送を見ていて妙な違和感を覚えている。いや、スポーツを見ていていつも感じている違和感が増幅しているのか。

 小さな板の中で、生死に関わりなく、でも昔は生死に関わった内容の「ゲーム」をしている、様を観察している。
 競技をしている人もそれを観ている人も、こんな生物は他には無いよね。まさに谷川俊太郎の二十億光年の孤独、「ネリリし キルルし ハララして」るって感じだ。

 まあ人としては、選手の頑張りから、「元気」とか「勇気」とか「情熱」、「活力」なんかをもらって、選手は逆にみんなから応援を受けて、それを力に変えた、って言うんだけど。物理的には一方的な信号を受けているだけ、決して板の中の人はリアルタイムで私の意図なんて受けてない。ただまあ、私やあの人や、病気で倒れたAさん、自殺してしまったBさんなんかが払った税金の一部が選手たちを彼の舞台へ送っていることは間違いない。
 何だかわからないもので、何だかわからないものを共有する。そこには「勝手な思い込み」が多分に入っているのは確かなんだけど、それでも確かに各国から集って競い合う。それはかつて誰かが[.「人間は社会的な動物である」と表現した程度では収まらない不思議だ。

 例えば人が生み出した人工知能が、自ら編み出すゲームの根幹には何があるのだろうか。どんな理由で競い、何と何を戦わせ、何を以て優劣となすのか。
 人工知能にゲームを与え、その目標としての得点だとか駒だとかの獲得を与えると最適手を編み出すようだが、NP完全とか困難とかの課題を与えて、最短時間を競う方法を提案する、なんてのは量子コンピュータの自動設計・製造に繋がったりするのかな。いや、これはやっぱり人間の欲だし、課題を人間が与えてしまっている。

 例えば伊藤計劃が「ハーモニー」で描いた恍惚の世界にスポーツはどう昇華されるのか。

 例えば、鳥が全世界に渡って生死に関係ない競技を始めたら、我々はそこに何を見るのか。

 面白いね、スポーツは。