イチローさん、ゴクローさん。

 先日、某国営放送でICHIRO 2244なる、その名の通りイチローの全ヒットをビデオで振り返ると言う無謀な番組をやっていて、こいつはケッサクだった。無論、その番組をリアルタイムで観ようと言う無謀なことはしなかったけど、スポーツバーなんかで一日中流しておくにはもってこいのビデオじゃないかな。
 まあ、メジャーリーグが海外国籍の選手ごとにこんなビデオを作って売り込んでくるのかも知れないが、そんな二流の想像は脇に置いておこう。

 このビデオの二倍強の失敗があるにせよ、イチローには本当に頭を下げるしかない。彼がくれた勇気は量り知れない。

 第一、私は観戦するスポーツにはほとんど興味が無かった。
 自分が勝負するわけじゃないのに、プロ野球の応援にどうしてそこまで熱が入れられるのか、全く理解できなかった。別に野球だけじゃなく、全てのスポーツについてそう思っていた。自分が負けるわけじゃないし、自分の贔屓のチームが勝とうが負けようが、いつものように明日はやってきて、自分は退屈な毎日を繰り返すだけである。

 私がスポーツの力にやっと気づいたのはかの911テロの時である。メジャーリーグはその試合を中止するか検討して、結局続行した。身内の中には被害者もいるメジャーの選手たちが戦うのを聞いて、「アメリカには野球があるじゃないか。」と思い当たった。そう、どんなに傷つけられようと、アメリカ人には野球がある。野球を観ている人がたくさんいることは、それはそれで幸せな国なのだ。
 戦争をするためにこの世に滞在している連中とは違うのだ。我々の目的は戦うことじゃない。良く生きることだ。(良く生きる、と言う中には確かに良く戦うことも含まれる。でもそれ一つしか解を得られないような生き方は良い生き方とは呼べない。)

 その後のスポーツを観るたびに、ああ、この人たちは観客の代わりに戦っているんだな、と感じた。いや、別に国と国の戦争とは限らない。地方と地方、人と人でも戦っているんだけどね。

 ふん、平和の象徴ってか。昔、家内の好きな五星物語(笑)なる漫画に、戦争する代わりに、ロボットに乗った騎士が代表で戦う(冷笑)、なんて貧弱な世界が描いてあったが、多岐に渡る種目で戦い、互いにrespectしながらスポーツで力を代弁する現実世界の方がはるかに複雑でスマートだと思う。
 現実はその漫画に描かれるほど単純じゃない。例えば、イチローは、シアトルマリナーズというチームで戦ってはいるが、日本人の見地から言えばアメリカと言う国と戦っている。つまり、彼自身の意志がどうであれ、応援者は彼のプレーに「勝手」な想いを投影している。だから私が他の、異国の選手に思いを乗せても、それはそれで私の代役として戦ってもらうと言う論理も機能するのさ。そう、この我々の意識を「代弁する」と言うスポーツの一面は、電子世界の「アバター」と言う世界観すら超えている。
 逆に、選手側から観れば、「そんな想いなんかシラネ」ってことになるだろう。でなきゃやってらんないよ。テレビ局や観衆が「日の丸背負ってどうたらこうたら」なんてわめき立ててもスルーして構わない。そして想いを乗せる側はスルーされることを理解しなくてはならない。

 ちょっと青臭い言い方をすれば、応援する皆は、その勝手な想い(どんな想いかは知らないよ)を贔屓の選手なりチームのプレーに乗せていて、彼らが活躍することに、自らの生活を重ね合わせ、その彩をもらおうとしているんだね。
#昔、アントニオ猪木が掲げた政党名「スポーツ平和党」と言う珍妙な名前の由来を理解したよ。


 イチローの一連のヒットを見ていると、日本人のありようはまさに中庸を知る、ってことかなと思う。ゴルフの宮里藍が第二打に拘ったように、飛距離は望まないものの、バランスの総合点で勝っていれば問題ない。「中庸の究極」を求めることは、何かのナンバーワンを極めるよりはるかに精密で、はるかに難しい作業だ。究極のジェネラリスト。それを目指すのが日本的プロフェッショナルという物だろう。
 そして、ここからは我々の問題である。我々は何らかのプロフェッショナルであるべきだろう。その枕詞に「日本の」が付くとは限らない。「会社の」「校内の」「町内の」「病室の」「スレッドの」…いろいろある。馴れ合い世界にもそれはある。それでも、そこに自分の居場所を確保するために努力することは必要だ。それがあなたの周りの人々を幸せにすることもあるのだ。

 かつて思った。かの馬鹿レンホーに「二位や三位でいい」、ってスポーツ選手に言ってみな。

 話を戻そう。
 それまでの野球はホームランバッターとピッチャーの個人対決だったように思う。イチローがいて改めて野球は走る速さ、捕球の確実さ、返球の精密度、そして打球のコントロールの重要性に回帰したように思うよ。そして多分、野球と言うゲームの閉塞感も飛ばしたんじゃないかな。

 アメリカに野球があるように、日本人にはイチローがいる。
 たとえ彼が国籍を米国に移そうとも、既にもらった勇気は色あせることは無いだろう。



…まあ、スポーツは縁の無い世界だが、いつかは書かねばならないと思っていたのさ。スポーツの世界に、私にはもうこれ以上発見できるものは無いかも知れないけどね。