ってまあ、また出張中

 年明けから現在は大分県の津久見市と言う場所に出張しています。
 今回は短波ラジオを持ってきたんだけど、AM全く入らない。天下のNHK様もここはピーとかガーとか言う音しか放送してない。入るのはFMの二局のみ。短波なんて探す気もない。まあ、テレビは画質の悪ーい14型ブラウン管アナログ放送が流れていて、そこにNHK衛星放送が混ざっているのが唯一の救いか。
 ここはセメントの町だそうで、すぐ隣がそのまま「セメント町」って地図に書いてある。電波の入りの悪さはその岩盤のなせるわざか。中華ラジオのロッドアンテナで四国の放送でも聴こうか、ってのは大甘だった。

 でもまあ、そのNHKのご大層な衛星放送も含めて、テレビって本っ当に面白くない。特に一月のくだらなさ。世界視点から言えば全く無名の芸人なる方々が、なんだか下の方でさわさわ言っているだけ。FMも似たようなものだけど、夜の時間帯はどこの局でも中年男性アナウンサーの長時間一人舞台と決まっている。大分の地方局のそれは、今ひとつ俗っぽい。でもテレビよりましなせいか、仕事しながらだとテレビよりラジオの方が邪魔になる(=内容に聞き入ってしまう)。

 この国のジャーナリストはどこで仕事してんだか。そうそう、そのNHKが「クローズアップ現代」だったかな、ジャーナリストの立花隆氏を向かえてネットの氾濫による紙媒体での報道(つまり新聞ね)が死にかけてる、って放送していた。

 ちゃんちゃらおかしい。

 何の営業活動もせず、国民から(規約を見ると、海外の外国人からですら)、さも当然と言ったような顔で税金紛いの視聴料を取っている団体にジャーナリズムを語る資格は無い。

 ジャーナリズムは死ぬ、って方に話を持っていきたい司会者に対して、鼻で笑って「死にませんよ」って断言した立花氏をちょっと見直した。(だから”氏”って付けることにしたんだ。)
 子供の頃、小学校にNHKの取材が来て、何やら給食のシーンとか撮影したときから感じているんだが、かの団体が報道する内容は、取材前に決定している。誰だか分からない責任者が決めた方針に従って番組は作られる。どんな声を聞こうと、どんな映像が撮られようと、彼らは彼らの思うようにしか放送しない。子供心にそう思って、それは今もそう感じている。


 あー、いや、そんな話じゃなかったっけ。そう、出張の話だ。ホテルに閉じこもっていると話も狭くなってしまう。
 出張、もう飽きたー。無論、お客様の職場では一所懸命働いているけれど、ホテルに戻ると(家内と)電話、夕食、仕事、ネット、仕事、ネット、ネット、時々洗濯、電話、風呂、仕事、仕事、寝る、のパターン。今週の頭、日曜日はお休みが取れたんだけど、九時半くらいにホテルを出ると、昼前には市役所近辺の主だった道路は歩けてしまった。その間、人とすれ違ったのは十人くらい。本屋も電器屋もデパートもなく、絶滅寸前の商店街があるだけなんだけど、そのわずかにすれ違った住人の方々は、見ず知らずの私にも挨拶をして下さる。もちろん、私も挨拶を返す。
 これは…よい。一瞬でその街が好ましく思えてしまう。居心地が良さげだ。そう、ホテルの部屋で蟄居するよりは散歩でもした方が気が晴れる。

 どんな町でも、家が一軒あればその町の生活が必ずある。それを伺い知るのは旅の僥倖だと思う。どんな状況でも、人は人を思いたいと思っている。自分が旅人でも列車の窓から見える山の中腹に明かりが一つあれば、そこにはどんな人が何を話しているんだろう、と思う。一方、自分の家で深夜、遠くの列車の音を聴くと、一体どんな人が何を考えて乗っているのだろう、と思う。
 「思う」ばっかで語彙の少なさを露呈してしまっているんだけど、人は人を思うことで、自分の存在を確認しているんだと「思う」。「いる」じゃ駄目なんだ。会社や学校に通って同僚や同級生が「いる」と言う認識では自分の「位置」を「同定」できない。

 げ、もう三時過ぎ。明日の起床まで三時間半しか無いので慌てて寝ることにしよう。