ガザの人々を想う

2008/12/31

ここしばらく更新が滞ってしまった。
 実は私はこのブログの執筆環境をネット上に移行しようとして失敗していた。ブログはネットと切り離せないものだからネット上で編集しても良いだろうと思ったのだが、なかなか文章が出来上がらない。
 私は結構初期の頃からのGmail利用者であり、かのGoogleがネット上に簡易オフィススィートを実装した頃からその利用法を考えていた。だからまあブログの原稿くらいなら何とかなだろうと思い当たったわけである。
 実際、使ってみるとテキストエディタ以上の機能にむしろ不自然さを感じる程度に完成度は高い。そしてこのブロードバンドの恩恵で、編集作業もさほど不自由さを感じない、と思った。しかし、だ。

 文章の推敲が終わらない。

 人間は四つ以上の選択肢があると、物を決める時間が極端に長くなると言う。私は複数のテーマで複数の文章を並行して書き始めた。「今日の興味ごと」は一つではないし、その興味を「明日」まで継続させることは難しい。そしてネットに接続する、と言う環境は(たとえブロードバンドでも)断絶的である。挙句の果て、どの文章も「完成」しなかった。
 何を以って「完成」とするか。それを定義することは不可能であるが、私なりに「いつでも修正できるから」とブログの文章に関しては敷居をかなり低く設定していたつもりだった。しかしいつの間にか、私の生み出す文章は、タイプ数の1/3(例えば100文字の文章を出すのに私は300文字程度の文字を打つ、と言う事だ)程度だったのが、おそらく1/8程度に落ちている。あまり不自由でない、と思っていたことが間違いであった。自分の思考が断続的になってしまった。


 ああ、やめよう(と、いつも私は投げ出すんだ。こんな風に)。私のくだらない言い訳よりもageておくべき事がある。


 今、興味があるのはガザ地区の戦争のことだ。「興味」とは失礼な言い方に聞こえるかも知れないが、単なる知識欲、と言う意味ではない。誰かが、誰もが声を出さなければならないのだ。いや、ガザだけが特別な地域でないのはわかっている。でも今は、今だけは彼の地の人々のために声を挙げよう。そのくらいしか、私にできることは無いと思うけど。

 本当に、イスラエルもハマスも頼むからやめてくれ。弾を出すボタンを押さないで。私の居る土地は今は歌手の幸せの絶頂を見せている。なんという差だろうか。
 双方の兵士の方々へ。あなた方は、そしてあなた方の指導者は決して、断じて勇敢ではない。戦争を「やめる」と言う変化を恐れている臆病者だ。他の道で歩むことを学ばない愚か者だ。学べない貧しい人々だ。「貧しい」と言う点にカチンと来たかい。何度でも言っておく。そう、あなた方はとても「貧しい」。あなた方が劣等感として捕らえてる以上にあなた方は「貧しい」。「戦士」=「勇敢」じゃないんだ。「戦士」=「尊い職業」じゃないんだ。あなた方はだらだらと引き金を引いているだけだ。もう何百年目だ?そろそろ、気づいてもいいだろう。
 良くは知らない(からあなた自身の声で教えて欲しい)が、あなた方の宗教は負けることを許さないものであると聞く。それが真実であれ風評であれ、戦争を続ける理由を勝手に宗教のことにしているだけだ。どんな宗教でも、結果的に「今を」生きている人を、「この世で」苦しめる宗教は悪だ。よろしい、どんな議論でも受けよう。その議論の結果次第で、あなた方が引金を引くのを止めるのが条件だ。私はどんな手を尽くしてでも、あなたの宗教観を変えてみせる。

 残念ながらこのメッセージを彼の地の人々の言語で発信できない、受信できない。(英語で要求されればなんとかなる。)でもこうしてネット上にでも声を上げなければ誰も振り向かない「無関心」ごとになってしまう。ネットの住人の責任は何か。私はこの世界に二十年生きていて、(あくまで私見であるが)それはヒトの共通頭脳を形成することだと思うんだ。くだらぬ「ネチケット」を守る、じゃない。上記の二人称の対象ではない、あなた。そう、あなたもその存在意義があるんだよ。「そんなことシラネ」と流すのかい。それでもいいんだ。「そんなことシラネ」と発言して欲しい。ヒトの頭脳の中には様々な反対意見が同時に存在する。重要なのはそれでも「一つ」ってことなんだ。