「彼ら」との違い

2008/11/24 凶行と平静の狭間
 ここ一、二日は元厚生省の役人絡みの連続殺人事件で、容疑者が出頭してきたことでマスコミが騒いでいる。
この容疑者(敢えて後日のことを考えて実名は記すまい)Kの身辺報道は、すでに同じフィルムの繰り返しになっていることから早くもマスコミが飽きていることが伺える。しかし私はこのような一見、不条理に見える殺人事件が起こる度に、我が身を振り返る。自分はこの人と何が違うのだろうか、と。
 おそらくこの人は最後の選択を誤ったに過ぎない。自分の悩みの持って行き場がなくて、悔しくて、責任をどうにか社会のベクトルに沿った方向で転嫁したかったのだと思う。それまでの生活が、ピントのぼけたターゲットを導出してしまったのだろう。
 私はこのような身勝手な文章を12才の頃から不定期に書いている。それは少々遅過ぎの感もあるが、今の自我を構成する要素に少なからず影響を与えている。最初は「自分は」「自分は」と自分についてのみ観察していた。私と言う者は自らの言葉によって形成されてきた。そして十数年してようやく、他人の行動に自分をあてはめるようになった。
 不条理、被害者から見れば理不尽この上ない理由で殺人が行われる。少年期の殺人としては例の酒鬼薔薇事件がまだ印象に残っている。でもその犯人の心情が…自我を保ったまま凶行に及ぶと言う行動の理由が「感じられる」のだ。それはまだ言葉に表現できるほど私は老成していないようだが、何となく彼らの気持ちに自分を重ねることができる。彼らの経歴も(ああ、少年の場合は経歴と言うほどのものは形成されていないだろうが)さして私と異なるものではないし、何よりも思考の過程が予想できる(気がする)。

 でも、私だけじゃないだろう?

 そんな不条理な思考に陥る不安は誰しもが抱いているんじゃないか。
 なるほど、確かにテレビのコメンテータは予想の範囲を超えないコメントしかしていないし、まあ毅然とした態度で犯行を否定している。それに対して同調できない自分があるかどうか。これが一番わかりやすい判定方法だ。テレビのコメントに反論してるか、なんて低レベルなことじゃない。
 自分の人生で、どこかほつれていたら、あの行動をとったのは自分かも知れないと思わないかい。
 彼らと私の差は薄氷一枚かも知れないと思う。
 まじめに生きていたらそれなりの見返りのある社会だとオトナは言ったのに、そうならなかった。へとへとに働いても金が無い。どんなに頑張っても周りの人に無視される。周りの人たちが煩わしいものとしか見れない。
 これらは、そう、自己中心的な思考である。誰が何と言おうと自己中心的である。それがいけないか。いけない。なぜなら、それは事実とは違うからだ。
…この、今私が放ったこの一言だけが彼らと違う部分なのだろう。そう確信していなくても(そう、この傲慢な私の一言は、あなたに同意を得ようとしているのではない、常に私を説得しようとしているだけなのだ)、それを自分に言い聞かせることができるか、どうしようもなく自己中心的な自分に、ほんのわずかでも疑念を持つことができるか。ただそれだけの違いなのである。この歯の浮くような薄っぺらい言の葉だけが私の(あなたの、ではない)アイデンティティなのである。
 これを陳腐だと笑うのならそれでもいい。そんなことシラネ、と自分にウソ吹いて無視するのもよい。でもこれだけは言わせてもらおう、いつかは必ずあなたの番が来る。その時の年齢次第では人はとても切羽詰る。でもどうせ逃げられやしない。だから必死で考えろ。私はこれを考えるために寝る時間を削っている。自分とは何か、生きることの意味は何か。実はそれを考えることがホモサピエンスの存在理由なのかも知れないぜ。