庭木の気持ちに思いを巡らせる

20081004
 私は今、木を殺している。
 何やら良からぬ響きである。大げさに思われないよう、急いで付け加えるが、猫の額ほどの庭に植えてある木のことだ。家を建てた先住者の遺産であるが、柘植、金木犀、松?など、直径数センチから二十センチほどの木々がぐるりに植わっている。
 原因となったのは、道側の木立の根が、雨水の配管を捻じ曲げてしまったことにある。それこそ直径十センチにも満たない木であったが、その根の力は偉大で、やはり直径十センチほどのビニルパイプを見事に地下で折り曲げ、排水できなくしていた。流れない原因を探って掘り起こしてみたとき、話には聞いていた植物の力を目の当たりにした。我が家は築十七、八年ほどになるようだが、その間に三十センチほども管を押しのけていた。
 心配になったのは反対側である。丘にある我が家のそれは海に面して築かれたコンクリートの崖になっており、その上に腰高のひ弱なブロック塀+アルミ柵である。そして比較的大きな木はこの塀のすぐ内側に立っている。よくよく見るとブロック塀にセメントの亀裂が見える。
 これは怖い。真下は他人の家で、その飼い犬の小屋がある。幸い、隣家のような「せり出し」庭では無いので、土砂の流出は見られなかったが、今後これらの根がどのようなことを起こすか容易に想像がついた。
 もちろん、最初は掘り起こして業者に引き取ってもらうことも考えた。しかし、巨大になっているであろう根っこを掘り出すことは、土地の地盤を貧弱にし、一層危険が増すと考えた。結論として根に土中で土をつかませたまま、地上部分を切って殺すことにしたのである。まあ、白状すると、庭木の選定・植樹位置にもポリシーがなく、無節操に枝が伸びる広葉樹も多い、と言うのも一つの動機である。
 心が痛い。
 小型の鋸と鉈でごりごり、かんかんと殺すのである。そう簡単には切れないので一日二、三本ペースだが、体力もさることながら全身全霊をかけた木々の訴えが聞こえて、それに耐える精神力も必要だ。

 私は山育ちで、小学校低学年までの遊び場は近くの林や森であった。木を切ったことは記憶にないが、竹林で竹を切ることはよくあった。その頃は土地の所有者の「資産」である、なんてことは意識しなかった。竹を切るのは竹トンボや弓矢なんぞを拵えるためでもあり、幅の広い孟宗竹なんてのは格好の餌食であった。また若くて柔らかいタケノコを単に破壊すると言う楽しみのためでもあった。その頃はそう言うものだったのだ。
 でも、たかが庭木、そして今は自分の資産ではあるが、それでも木が泣いているように思う。人とは何と身勝手なことか。せめて切られた木で何か作っておきたいが、仏像を取り出すほどの力は備わっていない。

 今回はただこれだけの内容だ。落ちも知識もない。自分自身の懺悔の気持ち。他の人はどうなのだろうか。プロに徹した業者ならともかく、日ごろ日曜大工もやらない私にとってはこたえるのだ。