漁業権のイミするところ

漁業ストと漁業権 20080716

 私が以前から疑問に思っている不当請求の中に入漁券と言うものがある。因みに他はNHK、年金、保険(健康・雇用含む)である。
 良くわからない難癖を付けて、物も売らずに、営業努力さえ行わずに金だけ捕っていく。

 で、昨今の燃料値上げに伴う漁業ストだ。「スト」という言葉は報道一日目をしてどこぞの圧力がかかったのか、今は「一斉休漁日」なんてとんでもない言葉に置き換えられている。従順な日本の報道機関は「A重油の値段は…」なんてアナウンスしていたが、デモのプラカードにはしっかり「ガソリンの免税を」とばかり書いてあった。元々A重油の税金は特別に優遇されていると聞く。
 この「スト」は漁協主導、いわば公認のストである。とんでもないことである。

 「じゃあ、漁業権は無効ね。」
と言う権利が、国民にはあるんじゃなかろうか。

 そもそも先祖代々の譲り物が多い第一次産業を、どうして他の人はやれないのか。昔、就農を本気で考えたことがあるが、極めて閉鎖的である。過疎の村で「数人」オーダーの募集がある程度で、しかも農地の提供は一切保証されない。この国では第一次産業に対する就職は極めて難しい。頑張って土地買って自家農園を始めても、固定資産税を農地、林のレベルに切り替えるのは困難である。「そんな奴いない(から法的整備ができていない)」ってのが役所側の言い分らしい。(なんていい加減な)
 魚を取るのになぜ漁協が口出すの?狩猟生活は、食料品にも消費税をかけるこの国では保証すべきだろう。海は漁協のものじゃない。いや、私も全く勉強していないわけでは無いけれど、やはり何回考え直しても不公平である。

 ガソリンの価格が致命的なのはわかる。そりゃそうだろう、今の漁業では。冷たい言い方だが、今まで漁協がサボってたのが今回の原因だ。育てる漁業は止まってしまったのか。備蓄としてのいけす整備はどうなったのか。どうして漁に出る人と、育てる人の収入源が独立しているのか。燃料費が最もダイレクトに響く業種である運輸業はちゃんとしている。もうすぐ値上げかも知れないけど、それに対する社会同意を得られる環境を構築している。つまり料金の根拠をある程度オープンにしている。昔ながらの競りのシステムも良いが、それは値上げに対する根拠がわかり難い。魚を採る人も自分の首を絞めるようなシステムでは無かろうか。
 例えば林業。海外からの安い資材に押されながら、生産調整とブランド材などで頑張っている。漁業にももっと厳密でエコロジカルな採取計画があるべきだ。総体として漁獲高を決めるだけじゃ、その枠内でできるだけ採る、ってのが人情だし、その結果、その日の売り上げを決めてしまうと皆がたくさん持ち寄って安くなってしまう、ってことになる。今は狩猟社会じゃない。もっと厳格な(地球のためにもなる)「生産計画」が必要だ。第一次産業は、今は個人が自由にやれる産業ではない。
 農業も豊作はやっかいかも知れない。けれど自分の食い扶持は、いかなる凶作の時も最優先で確保するし(ああ、店で売れそうに無い形の悪いものしか残さない、って低レベルな言い訳は止めて欲しい)、安穏な兼業農家の道も他の産業に従事する人同様に拓けている。
 農家や猟師の厳しい生活に代われ、と言われれば躊躇する。でも私も食うものを作りたいし、捕って良い物ならば捕りたい。代われるものなら代わってもいい。船でも農地でも譲って欲しい。何せ、代わってみてダメと思ったら比較的容易に元の職種に戻れる社会なのだから。

 それでも、社会生活を営むものは社会への貢献を義務付けられている。それが漁協の指導であればサボタージュも許されるのなら、まずそのわけのわからない権利を放棄しなさい。
 集団補助金くれくれ乞食にはならないで欲しい。これ以上税金を上げるな。

 とまあ、日頃の怒りにかまけて少々度が過ぎたかも知れない。今日の報道の唯一の救いは、ある漁師さんが燃料高騰のあおりで赤字になりながらも「好きで(この魚を)やって(捕って)いるから止めないけどね。」と自認していたことだ。

 食料自給率の問題は何も農業の産物だけでは無い。「食の安心」とは、安全な食料、って物だけではない。将来も継続的に供給されることの安心感も含むのだ。既存のシステムに安穏としている漁協指導部には猛省を促したい。