イキ続けることのイミ、変わり続けるコトのカチ

(A negative thinking, but introducing the way to yourself.) 06302008

※この文章は、一度ボツにした原稿である。ちょっと独りよがりに、そして私的に過ぎるかなぁ、と思ったからである。でも、ゴミ箱の中でちょっと引っかかる。少々手直し。それでも他人にわかり難い文章だし、独りよがりも抜けていない。貴方には貴方の意見があると思う。意見交換はいつでも歓迎。

 今日もテレビで自殺者数が三万人でその内の八割が「鬱」が原因とされている、と言っていた。
 警察の交通取締り(予算化された違反金の徴収業務)による交通事故撲滅運動なんかより、この対策のために公務員をシフトして金をかけるべきだろうと思いながらひとつ気づいた事がある。
 私は今、鬱の状態を避けられている。
 鬱病の思考は知っている。でも今の自分が果たしてその思考を行っているかと言えばそうでもない。その理由は明白である。引越しと再就職、そしてそれに伴う新しい知識の獲得である。それにしがみつ「け」ている限り、危ういところかも知れないが、鬱の思考ループをかわすことができていると思う。
 変わることはストレスをもたらす。その言葉も否定しない。でも少なくともstand stillの状態では一度鬱に陥った者は鬱の思考に落ちていく。鬱は安定からもたらされることもある。ここで言う「安定」とは「つまらない」状態だろう…って言ってしまうと月並みだなぁ。
 でも、変わることに追従していくことに(「に」が多いぜ)一所懸命になって、鬱病の思考を「忘れていられる」ことはあると思うんだ。
 誤解しないで欲しい。単純に、職を変えるのもいいよ、って言っているんじゃない。
 再就職を頻繁に繰り返してしまうことも、一種の「安定化」状態と言えるのではないだろうか。
 今、私は新しい仕事に興味はあるし(幸せなことにヒラ社員なので管理業務に悩まされることも無い)、それをこなすための知識の獲得も面白いことだ、と信じている。そして少なくともこの半年間、私の精神状態が安定することは無かった。まあ、この状態を手に入れるために失ったもの(特に収入)もあるが、そのための面倒な手続き類さえも初めての体験で新鮮な生活だった。
 逆の「おそれ」もある。今のテンパってる自分がヘタレた時、その反動は一体どんなものになるだろうか。そしてそれはいつなのか。近くその「おそれ」は「ストレス」に変わり、カタストロフィーを大きくする一因になるだろう。その時までに、その状態でも一つの極値(あの、数学で習った奴ね)に過ぎないんだ、ってことを悟りきれれば良いのだが。

 私は鬱を本当に抜け出すには悟りを開くしかないと感じている。ああ、語彙が無いから「悟り」と言う言葉を使っているけど、仏教とは直接関係ない。でも一つの通過点として哲学書や宗教に走るのも良いだろう。汗水を垂らして働きながらでも悟ることはできる。宗教団体に入っても何の助けにもならない(カモシレナイ)。時間と場所と資料は与えてくれる「かもしれない」。仲間内での勉強会も良いだろう。しかしそのいずれも「悟る」のは自分自身でなければならない。「悟り」とは人に教えてもらえるものではない。貴方が悟ったことは貴方だけのものなのだ。
 ここから下は「哲学」=「悟り」を開くための学習、と乱暴な定義をしよう。
 哲学は自分自身のための学問である。だから世の中には哲学者はいない(あー、言っとくけど知ってるよ。自分をそう呼んでいる人がいるのは)。一人の哲学はその人にしか関与しない。
 同じ歳くらいの新興宗教の信者と話すことは実は意外と面白い(実際にやったみたことがある)。みな、ある意味純粋で一途なところがあるが、気の毒なことに私と話すと自信を失くすようである。なぜなら彼らが持っているのは、自分で見出した見解ではないからだ。「見解」ってのは、生きていることについての見解。生きていることのイミじゃない。人によると思うが、哲学の目標は人生の意味を見出すこととは限らない。私は昔、高校の倫理のクラスで「人間如何に生きるべきか」を追求するのが哲学だと習ったが、私自身の模索の結果では少々それとずれる結論になっている。

 さて、では仮に「悟り」を開いたとしよう。でも一つを悟れば次の悟りが待っていることがわかる。つまり一回の悟りは一つの極値に過ぎないってこと。そう言えば「大悟」と言う仏教用語?があったかな。詳しくは知らないが「大悟」が絶対解のことを指すのなら、それは常人には到達不可能の値。神の領域かな。うーん、ある意味当たっているなあ、そう言えばそんな解を得られた人を「生き神様」と呼ぶんだったね。