PLUTO

20080805 PLUTO
 浦沢直樹×手塚治虫のプルートウ第六巻を読んだ。ちゃんと購入して読んだ。いや、買ってきたのは家内だが。
このシリーズ、結局全巻読んできている。まあ、本筋のコトはいろんな人がいろんなコトを言っているから私はナナメほんの少し下を向いた話をしよう。
 このシリーズ、前回もそうだったがあとがきが割と面白い。作者と同世代の人に頼んでいるようで、頼まれた人の苦悩は計り知れないが、結局「さすがだ」と思うできに仕上がっている。第六巻の執筆は山田五郎氏、私より一回り古い世代の方々が過ごしてきた時世と言うものを、ああ、この言葉だ、と言う示唆に満ちた用語を駆使して、その言葉をわかる世代だけにスッキリ伝えている。ある意味得意げな、他の世代から見ればズルい文章であるが、わかる人にだけわかりゃいい、と言うのもマンガのあとがきとしては似合っている。なに、実は私はその中に出てくる山下達郎の「アトムの子」にアンテナが反応しただけだが。
 少々脱線するが、私は山下達郎の曲を今でも「カッコいい」と思う世代である。彼と同世代の(当時の)若者がラジオジョッキー、いやDJなどと言う半端な仕事に道を踏み外したのも彼のせいである。で、私は大学に入学した頃、当時DDに進化していたウォークマンを買って、彼のテープを何回も聴いた。
 そう言う意味では、私はマンガよりも音楽にインスパイアされる性質(たち)であった。だからポピュラーミュージックについては一世代ムカシの方々の歌を知っている。
 でもその世代に憧憬は無い。私たちが過ごしたのは「しらけた」世代である。最も多感であるはずの時代を某コメディアン言うところの「ドッチラケ」で過ごしてきた。だから、今回の山田氏のような文章は書けない。しかしそれを悔やむ自分でも無い。もっとあの頃…と切望するほどのものも無い。
 しかしこれは浦沢直樹×手塚治虫の作品を軽んじるものではない。マンガと言うストーリーテリングの形態は私の中では(遅ればせながら)確立しているし、この二人に限らず多くの人々がすぐれた「作品」作りに携わっているのも理解している。そしてそれを私個人ができないことも。
 ただ単に、未だに、私いや「僕」の中は白いままだ。